住みごこちブログ♪ 高気密高断熱住宅に住んでみて、日々感じることを綴っています。

あれから15年 

2010年1月17日

阪神淡路大震災から15年たちました。

わたしは神戸の出身です。
震災の時には大分市にいましたので、わたし自身は被災していませんが、当時、
実家は芦屋市にあり、親戚や友人も神戸市内にたくさん住んでいました。
幸いな事に亡くなった人はおらず全員無事でしたが、親戚の家の二軒が全壊、
一軒が半壊してしまいました。
父は子どもの頃、神戸大空襲にあい、焼夷弾で焼け野原になった神戸を見たそうです。
50年後に同じような光景を目の当たりにするとは思いもしなかったと嘆いていました。

下の写真は震災後の実家の様子です。父が写真を撮っていました。
ダイニングテーブルの上に隣の部屋にあったカラーボックスらしきものが乗っかってます。
なぜこんなところにこんな物が?と呆気にとられるような状態です。
暗くて分かりづらいですがテレビやテーブルも散乱して足の踏み場がありません。
建物全体がシェイクされたような感じだったそうです。
阪神淡路大震災

キッチンです。冷蔵庫と食器ダナが入口を塞いでて中に入れません。
ガラスも割れて散乱しているので靴を履いたままでいます。

阪神淡路大震災

家が全壊した叔母が避難生活を送っていた本山第三小学校です。
いろいろな連絡事項の他に「勉強したい人教えます」「自転車パンク修理無料」などの
張り紙も見られます。
 
阪神淡路大震災
避難所で一番大変だったのが、トイレだそうです。
ライフラインの中では水道の復旧が一番遅れ、水洗トイレが使用できず、グランドの隅に
大きな穴を掘り、使用後、石灰を撒くと言う原始的な方法を取らざる得なかったそうです。
体育館内ではインフルエンザが流行しだし、大変過酷な状況の中、ことトイレに関しては、
冬で良かった・・と思います。
実家の両親も給水車が来るのを待ち、水を汲みに行くのが日課でした。

この震災は、阪神間でも被害の大きな所とそうでない所の差が激しかったです。
神戸に隣接している芦屋市から阪神電車で大阪市まで買い出し(買い物、ではない)に
出かけた両親は、何駅か先のそこには今までと変わらない世界がある事に驚いていました。
でも、命があるだけありがたい、とずっと謙虚でいました。
あの頃の神戸の人たちはみなそうであっただろうと思います。
亡くなられた方のご冥福を心からお祈りいたします。